らっこ・アーティスト:エポカ・ヂ・オウロ ショーロ黄金の日々

02、03年とエポカ・ヂ・オウロが訪日を重ねたころ、輸入盤店ワールドフロアの一角に、突如“カフェ・ミュージック”なる棚が出現していた。大ヒット作「カフェ・ブラジル」にあやかろうとしたらしい。7年後、さすがに意味不明のコーナーは姿を消すが、彼らの紡ぐ伝統の重みは変わらない。エポカは、生けるショーロの伝説なのだ。

 ショーロは、19世紀半ばのリオで誕生した器楽アンサンブル。ポルトガル語の“ショラール(chorar)=泣く”が語源だが、万事、旧宗主国の恩恵を否定したがるブラジル。大農園のアフリカ系奴隷が、祭日にのみ許されたダンスパーティー“ショロ(xolo)”起源説を好む傾向あり。

 ショーロは、サンバの厳格な父にあたる。雑草のごとくたくましい放蕩(ほうとう)息子は、全土で時代ごと節操なく形を変えるが、父親のほうは頑固一徹。ほとんど昔日のスタイルを崩さない。

 79歳でプロモーション来日した(普通するか?)、パンデイロの達人ジョルジーニョへ問う。“黄金時代”を名乗る集団にとって、黄金時代とはいつなのか。

 「30~50年代だ。キャバレーにシネマ、ラジオやサロンにショーロがあふれていた。63年ツイストの流行で、一気にブラジル音楽全体が落ち込んだ。仕事も厳しくなった」と、いたって正直。05年ベルリン映画祭出品、ミカ・カウリスマキ監督作「ブラジレイリーニョ」では、「ショーロにとって今に優る時代なし」とナレーションでぶち上げるが、90年代末以降の栄華も、往時の比ではないらしい。

 なんせジョルジーニョ御大は、ショーロ全盛期の巨星らを目撃した、最後の生き証人なのだ。

 「わが家じゃ毎週末、プロアマ問わず音楽家が集まり、ショーロの輪(セッション)を繰り広げていた。ピシンギーニャやベネヂート・ラセルダもいた」

 両者はショーロ史に名を刻む管楽器奏者。もうひとり忘れちゃならんのが、ジャコー・ド・バンドリン。エポカ創設者だ。

 「ジャコーは良き時代へのオマージュとして、エポカ……と命名したんだろう。当時ショーロ集団は名を持たず“レジオナル(地方色集団)”と呼ばれ、彼はその蔑称(べっしょう)を嫌ってた。彼は偉大だな。永遠に私らは、ジャコーの音楽を語り続けるのだから」

 開祖の死後、エポカは4年の休止を余儀なくされるが、73年に復活。メンバーを刷新しつつ今日に至る。バンドリン(フラットマンドリン)、カヴァキーニョ、6弦ギター、7弦ギターにフルート。オリジナル・メンバー唯一の長老が、緩急自在のアンサンブルをパンデイロで統率する。ショーロを志す後進にとって最高の規範が、ぶれないエポカの気品にみちた至芸なのだ。7年ぶりの来日公演、息子の人気パンデイロ奏者も駆けつける。(音楽ライター・佐藤由美)

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