五所川原市長選あす告示 現新、保守対決か

 五所川原市長選は6日告示される。今のところ立候補を表明しているのは再選を目指す平山誠敏氏(69)と新顔で県議の櫛引ユキ子氏(56)で、一騎打ちとなる公算が大きい。自民、公明両党の推薦を受ける現職と自民党を離党した県議の保守対決となり、激戦が予想される。投票は13日で即日開票される。(鈴木友里子)

 現職の平山氏は前回、健康問題を理由に任期途中で辞職した前市長の市政継承を掲げ初当選。「財政再建をあと4年で軌道に乗せたい」として、今年1月の会見で立候補を表明し、足固めに入った。ところが、4月に突然、当時、自民党五所川原市支部長だった櫛引氏が「市政に市民の声が届いていない」と、市長選に名乗りをあげた。

 明確な争点がない中、平山氏は財政再建や、つがる西北五地域の病院機能再編をめざし、同市に2013年度に完成予定の中核病院(仮称)建設などの実績を強調する。

 一方、櫛引氏は小中学生の医療費の無料化など医療福祉に重点を置く。また農家との対話による農業政策の決定など、市民の声を吸い上げる制度作りに力を入れるという。

 6月2日現在の選挙人名簿登録者数は5万661人。(鈴木友里子)

◆合併後、街づくりに不満・不安◆

 旧五所川原市と2005年に合併した旧金木町。町でたった一つの体育館だった金木トレーニングセンターは更地となり、6月初旬に現地を訪れると、跡地は雑草と砂利がむき出しになっていた。

 「雪深い冬場にグラウンドゴルフを練習する施設がなくなった。みんな使っていたんだ」。近くに住む沢田嘉昭さん(80)はこう嘆いた。

 同センターは、小中学生のクラブ活動や主婦たちのバレーボール、お年寄りのグラウンドゴルフの練習場として、年延べ1万2千人が利用していたという。だが、老朽化を理由に市は昨年、解体した。

 市によると、解体費は約5千万円。建て替えには1億円以上かかるという。財政再建中の市は公共工事を大幅カットしており、新築計画はまだない。沢田さんは「市中心部は大型公共事業をしている。市には地域格差のない取り組みを求めたい」と話す。

 同じころ、JR五所川原駅前ではトラックや重機がひっきりなしに往来し、下水道や配線工事の音が響いていた。

 総事業費約69億円をかけ、市が04年度から始めた「土地区画整理事業」だ。観光施設「立佞武多(たち・ね・ぷ・た)の館」を中心に4・4ヘクタールで道路や公園を再整備し、百貨店閉店などが続いた中心市街地の再生を目指す。

 費用の多くは国の補助金だが、市の負担も約14億円。地権者が元の土地に店舗を建て直すのを渋る動きもあるといい、周辺住民から「多額の税金を使って、町がさらに空洞化するだけかも」(会社役員女性)と不安の声もあがる。

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 かつて、市の財政難は深刻だった。06年度決算で、貯金にあたる市の財政調整基金は約10万円まで激減。07年度以降、市単独の補助事業など約1千の事業を見直すなどし、約180事業(年7500万円分)を廃止や休止にした。07年度決算は黒字に転換し、同基金も09年度末には5億5千万円に戻ったという。

 市長選に立候補する新顔の櫛引ユキ子氏は「削られすぎた予算も多く、旧市浦村、旧金木町には不満の声も多い。格差のないバランスのとれた行政運営が必要だ」と訴える。中心部の区画整理事業は「今のままでは空洞化を招く。市は土地の利用策をまだまだ考えていない」という。

 一方、再選を目指す平山誠敏氏は「旧3市町村の融和を図りながら発展の礎を築いてきた」と4年間の実績を強調する。そのうえで「重要なのは財政基盤の確立で、バラマキ政策は許されない」とし、金木トレーニングセンターの再建は「もう少し財政に余裕が出てきたら」と話す。

水と緑 児童の教科書/三田

◆アイガモ農法実地に/本庄小
 総合学習の一環として環境について学んでいる三田市立本庄小学校の3年生14人が3日、同市須磨田の農業酒井毅さん(73)の水田にアイガモ23羽を放した。放鳥後、子どもたちは酒井さん方でアイガモ農法について話を聞いた。

 酒井さんは「三田合鴨(あい・がも)稲作会」(眞造達夫会長)の前会長。1998年から本格的にアイガモ農法に取り組んで来た。今では11農家が約10ヘクタールで栽培している。

 酒井さんは「農薬や化学肥料を使わない安全なお米を作っています。今は昔と同じようにホタルやトンボが戻ってきた」と子どもたちに語りかけた。JA兵庫六甲三田営農総合センターの営農相談員、近藤美都さん(29)は子どもたちの質問に答えて「アイガモは雑草を食べるしフンは肥料になります」などとアイガモ農法の長所を説明した。

◆メダカお引っ越し ビオトープへ/武庫小
 三田市立武庫小学校で2日、プールにいるメダカなどを校内のビオトープへ移す引っ越し作業が行われた。5、6年生でつくる魚委員会の15人が水を抜いて水深を浅くしたプールに入り、網やひしゃくで捕まえた。子どもたちはヤゴを見つけて歓声をあげていた。

 同小では去年、プールに水草を入れ、児童たちが水中の生物の観察をしてきた。メダカは、水草に付いてきたとみられる卵が孵化(ふ・か)して成長したという。ギンヤンマのヤゴが羽化して飛び立つ様子を目撃したという子もいる。

 この日は県立伊丹北高校の谷本卓弥教諭や三田市福島の同市有馬富士自然学習センターの学習指導員らが訪れ、作業を指導した。谷本教諭は、水草が光合成で酸素を出すことやメダカなどの隠れ家になることなどを説明した。

 同小は去年、「全国学校ビオトープ・コンクール2009」で最高位の文部科学大臣賞を受賞しており、今後これらの活動を財団法人日本生態系協会に報告する。

普賢岳 惨事伝える柿の木

43人の死者・行方不明者を出した雲仙・普賢岳の大火砕流から、3日で丸19年。現場となった島原市北上木場町では、被災しながらも生き延びた柿の木4本が毎秋、実を付け「生き証人」として惨事を伝えている。かつての住民は「いつまでも残したい」と、柿の木の世話を続けている。(篠原太)

 被災前、同地区には約80世帯があり、ほとんどの家で敷地内や畑に柿の木を植えていた。収穫後、家族総出で干し柿を作り、正月前には行商に出かけたという。だが、何度も火砕流に襲われ、民家や畑は焼失。住民は戻れなくなり、土地は国に買い上げられ、砂防工事が始まった。

 柿の木が見つかったのは、噴火終息後の1995年秋。元住民らでつくる「上木場災害遺構保存会」の上田実男会長(76)らが、雑草が巻き付いた柿の木に黄色い実を発見した。火砕流を受けた部分は真っ黒に焦げていたが、残りの部分から新たに芽が出て実をつけるまでに成長していた。

 「よく生き残ってくれた」。上田さんらは除草し、倒れないように添え木をして樹木医に治療を依頼。焦げた部分は除去され、今では幹がえぐられた状態になっているが、春には枝一杯に葉を付け、秋にはたくさんの実がなるようになった。

 柿の木は、かつての生活道路(約400メートル)沿いに4本残っている。2007年に工事用の道路が併設されたため、今後も生活道路を残していきたいと、上田さんが同年に「柿の木坂」と命名し、看板を設置した。「土石流で埋まるなどし、残っている当時の生活道路はここだけ」と振り返る。

 同町で生まれ育った佐原トキエさん(70)(島原市)は、今でも実を収穫しては干し柿を作っている。「懐かしく、どうしても行きたくなるんです」と話している。

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 同市は3日を「いのりの日」と定めている。多くの小中学校では、災害を語り継ぐ集会が開かれ、犠牲者に鎮魂の祈りをささげる。

 午前8時半から午後6時まで、仁田町の仁田団地第一公園にある「犠牲者追悼之碑」、午前9時から午後5時まで、平成町の島原復興アリーナそばの「消防殉職者慰霊碑」に、それぞれ献花所が設けられる。

 火砕流が発生した午後4時8分には防災行政無線を鳴らし、市民が黙とう。平成町の雲仙岳災害記念館では午後7時から、約1000個のキャンドルに火をともす「いのりの灯(ともしび)」が行われる。

(2010年6月2日 読売新聞)