9月9日14時1分配信 毎日新聞
◇「戦争被害伝えたい」
かつての城下町の風情が残る尼崎市寺町地区に建つ「本興寺」(同市開明町3)の灯ろうや墓石に、米軍機の機銃掃射の痕跡とみられる跡十数カ所が残っていることが分かった。近くの旧開明小学校の塀にある機銃掃射跡はよく知られているが、寺町ではほとんど知られていない。初めて確認した尼崎市立地域研究史料館の辻川敦館長は「市史にも記載のない事実。地域の歴史を伝える意味で意義がある」と話している。【大沢瑞季】
寺町地区は、尼崎城の築城とともに、寺院勢力を統括しやすくするなどの目的で寺を集めて整備された。今日もほぼ変わらない区画で、11の寺がまとまって存続する珍しい地区。国や県、市の指定文化財が多数保存されている。
尼崎市発行の「図説尼崎の歴史」によると、1945年3~8月にかけ、尼崎も度々空襲に遭った。焼夷弾(しょういだん)による攻撃の他、戦闘機からの機銃掃射も数回あった。合計で、死者約480人、負傷者約700人の被害が出た。
旧開明小の南西にある塀には、45年6月1日に飛来した米軍機が、機銃掃射した際についたと伝えられる跡が残っており、説明板もある。同小から数十メートルしか離れていない本興寺にも、灯ろうや墓石などに、十数カ所の弾痕とみられる円形の跡があり、同じ時についたとみられる。
本興寺一乗院の斉藤治子さん(83)は空襲当時、家の中に隠れていたが、航空機の音や銃撃の音とみられる「ゴォー、バリバリ」という大きな音がした。焼夷弾も落とされたため、周囲の寺院は焼け、敷石も大きくへこんだという。機銃掃射を受けた人が鐘突き堂の前で亡くなったり、焼夷弾の火を座布団で消そうとした住職が、被弾して足をけがした、という。斉藤さんは「今でも弾痕を見ると、当時のひもじい生活を思い出してしまう」と振り返った。
辻川館長は「旧開明小の塀も市民の熱心な声があり、保存された。同様に寺町の歴史も掘り起こし、戦争の被害を伝えていければ」と話した。
〔阪神版〕