旧交通博物館は今…変わらず残る万世橋駅の遺構

11月3日14時1分配信 産経新聞

 交通博物館(東京都千代田区神田須田町)が万世橋駅に併設されて以来、70年の歴史に幕を閉じ約2年半が経過した。前庭にあった0系新幹線、D51蒸気機関車は撤去されたものの、神田川沿いの美しい赤レンガアーチは健在だ。鉄道に関する収蔵物の大半が1年前に開館した鉄道博物館(さいたま市大宮区)に移されたが、明治・大正期の駅構造物が残る館内や、貴重な自動車や飛行機はどうなったのだろうか。旧交通博物館を訪ねてみた。

 ■自動車、ヘリ…着々と決まる“引っ越し先”

 パノラマ模型運転場の横に蒸気機関車2両が並び、戦後だけで約3000万人の入場者を迎えてきた1階ホール。3階までの吹き抜け構造で、床面には砕石が残り、天井からほこりをかぶったヘリコプターが寂しく下がっていた。

 ホールに面した2、3階の手すりは展示物搬出のため一部が壊され、閉館前の「さよなら企画」で掲示された博物館の古い写真がそのまま残る。手狭になったことが閉館理由の1つだったが、がらんとした今ではとても広く感じられる。

 JR東日本の委託で管理する交通文化振興財団の荒木文宏事務局長は「実物を置かなければ博物館ではありません。展示物の寄贈を受けてもスペースが限られていたので頭を悩ませました」と振り返る。

 2、3階に自動車や航空機に関する展示物の一部が当時のまま残っているが、貸し出しという形で“引っ越し先”探しが進められている。愛好家から「鉄道以外は捨ててしまうのか」と不安の声も上がったというが、博物館やメーカーから展示を希望する問い合わせが殺到。大学教授らでつくる有識者会議がふさわしい場所を検討しているので、ご安心を。

 1階奥にある中央線高架下の展示コーナーに場所を移すと、時折列車の通過音が聞こえてくる。線路や架線を支える現役の鉄道施設だけに、点検がしやすいよう展示コーナーのあちこちに小さな扉が設けられ、扉を開けると赤レンガが現れる。

 直線で最長120メートルに及ぶ高架下のアーチ型空間は展示だけではなく、倉庫、配電盤の設置、鉄道模型工場、営繕など裏方用に使われていた。細い通路の左右に並ぶ教室のような部屋の1つでは、実際に子供を対象とした工作教室も行われたという。

 また、扉を閉めると完全な暗闇となる一番広い場所は、堅牢(けんろう)な構造を生かして写真の現像に使った時期もあったそうだ。日が当たらず、ひんやりとした空間にどこか懐かしい酢酸のにおいが漂っていた。

 ■駅の面影を伝える2つの階段

 中央線の神田~御茶ノ水間に位置した万世橋駅は2回の再建を経た。

 後に東京駅を手掛ける辰野金吾(1854~1919)が設計し、中央線の始発として明治45年に建てられた豪華な初代。大正12年の関東大震災で焼失した後に再建された簡素な2代目。昭和11年に博物館を併設し、近代的な建物に生まれ変わった今も残る3代目。

 建物の基礎を共通しているため平面図を比較すると形は大きく変わらないが、趣はまったく異なる。駅は戦時中の18年11月に営業を休止した。

 駅の面影を最も残すのが高架上のプラットホームにつながる明治と昭和初期に造られた2つの階段だ。

 階段の踊り場を利用して造られた休憩所は、左折する形で壁の向こう側に階段が延長している。初代駅舎の中央階段をそのまま流用し、博物館併設後はプラットホームに直結する来賓用の特別出入り口として使っていたという。

 ホーム跡につながる天井をふさぐため木材が垂直に入っているものの、壁のレンガや御影石の階段は当時のままだ。一方、現在の事務室裏にある階段は博物館併設時の3代目駅舎とともに新たに造られたもの。コンクリート製であることや、レンガの目地の処理など初代と比べて見劣りするが、「しばいせんま」と書かれた駅名標が復元され、当時の雰囲気を醸し出している。

 階段の段ごとに付けられた滑り止めは戦時中の金属供出のため外された状態。東屋のような木製の“屋根”は雰囲気を壊すが水漏れ対策だから仕方がない。旧中央階段と同様に天井はふさがれていたものの、突き当たりに小さな扉があり特別に開けてもらう。

 旧ホームからながめた周辺のビル群が現れるか、と思いきや、伸び放題の雑草が枠いっぱいに広がった。「花壇をつくり花畑だった時期もありましたが、今は花は植えていません」と少し申し訳なさそうな荒木事務局長。

 扉から顔や手を出すのは“ご法度”。運転士が見つけたら直ちに列車を止めてしまう。しかし、奥からのぞくだけでも間近を列車が通過する様子は迫力満点。同時に昔のホームはこんなに狭かったのか、という驚きもあった。

 ■跡利用はどうなる

 専門家によれば、3代目駅舎の一部として昭和11年に建てられた交通博物館も旧万世橋駅に負けず劣らず歴史的価値の高い建物という。上野公園にある西洋美術館をはじめ、手掛けた建築物群がまとめて世界遺産に登録されることが見込まれるル・コルビジェ(1887~1965)の薫陶を受けた日本人が設計した「日本近代建築の元祖」と呼べるものらしい。

 「壊さないで」と要望が寄せられているが、関係者の話では保存にはかなりの困難があるようだ。博物館から用途変更すれば今の耐震基準、消防法を満たさなければならず改築が必要。補強のため筋交いなどが入ることで面影が失われることも予想されるという。

 建物の跡利用はJR東日本で検討中だが、荒木事務局長は「万世橋の歴史や旧駅の遺構を後世に伝えていくような活用法を検討してほしい、と伝えています」。

 今でこそ大通りから東に100メートルほど入った裏手に位置するが、かつて神田川方面と反対側にあった旧駅の中央口(博物館では大物搬入口)の目前には「須田町交差点」があり、路面電車や自動車が行き交っていた。夏目漱石らの作品にも頻繁に登場する繁華街だった。

 万世橋駅が営業休止となり、最寄り駅となった秋葉原はやがて家電やパソコン、メイド喫茶に席巻されていく。その間も博物館は変わらぬ姿で歴史を伝え、御茶の水など文教地区を守る“とりで”のような存在でもあった。

 神田川を挟み万世橋から昌平橋まで約110メートルにわたって伸びる中央線高架下の赤レンガアーチ。ここだけでしか見られない光景だ。ぜひとも鉄道遺産を生かす形での跡利用を希望したい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA