8月13日13時35分配信 毎日新聞
長野県の山あいに「石の鐘」をつるした寺がある。戦時中に供出された釣り鐘の代わりとして、67年間そのままになっている。信濃町の称名(しょうみょう)寺住職、佐々木五七子(いなこ)さん(80)は、寺を去った鐘をめぐる戦争体験を今年、長野市など数カ所の集会で語る。「世の中が本当に平和になるまで、この石は降ろさない」。不戦の誓いを新たに、佐々木さんは終戦から64年の夏を迎えている。【竹内良和】
寺の住職は代々、佐々木さんの親族が務めてきた。88年に夫を亡くし、今は佐々木さんが寺を一人で守る。病気がちで手が行き届かない境内は雑草が生え放題だが、「私は全然気にしないの」とほほ笑む。鐘堂は約240年前に建てられたといわれ、そこにつるされた縦約1メートル、直径約80センチの石は、棒で突くと「コン」と軽い音をたてるだけだ。
1942年10月1日。当時13歳の佐々木さんは釣り鐘を降ろす村人を見つめていた。「四里(約16キロ)四方」に響き渡り、村人が手を合わせた鐘。戦争で金属類が逼迫(ひっぱく)し、軍は全国の寺から鐘を供出させた。
「お国のため」と説得されたが、前年は仏具や鍋釜を取られた。今度は物心がつかないころから親しんできた鐘を持って行かれる。無性に腹が立った。荷車に積んだ鐘を囲む記念写真に佐々木さんは一人、そっぽを向いて納まった。近所の家の庭石が代わりにつるされ、表面には「梵鐘(ぼんしょう)記念 昭和十七年十月」と刻まれた。
さらに戦局は悪化し、村人が鐘堂脇の桜の大木を「畑にする」と切りに来た。「こんな狭い所を畑にして、どれだけ食糧増産できるのか」と抗議すると、申し訳なさそうに帰って行った。子供心に「国の命令で嫌々来た村人の顔が気の毒で見られなかった」という。
戦後、住民から「新しい鐘を」と寄付の申し出もあったが、「あの鐘の音は戻らないので」と丁寧に断ってきた。人々の大切な多くのものを奪った戦争。
「みんな、わが身ばかり大切に思うから戦争は起きる」。普段は温厚な佐々木さんだが、石の鐘を見る時だけは表情が厳しくなった。