称名寺:平和待つ石の鐘 戦時中に供出、「代役」67年--信濃 /長野

9月15日13時2分配信 毎日新聞

 ◇不戦の誓い語り継ぐ
 信濃町の山あいに「石の鐘」をつるした寺がある。戦時中に供出した釣り鐘の代わりとして、67年間そのままになっている。称名(しょうみょう)寺住職、佐々木五七子(いなこ)さん(80)は今夏、寺を去った鐘をめぐる戦争体験を、長野市など数カ所の集会で語った。「世の中が本当に平和になるまで、この石は降ろさない」。不戦の誓いを新たに、戦後64年目を迎えている。【竹内良和】
 寺の住職は代々、佐々木さんの親族が務めてきた。88年に夫を亡くし、今は佐々木さんが寺を一人で守っている。遠方でも11人の孫に恵まれ、「とっても幸せ」とほほ笑む。病気がちで腰も痛い。手が行き届かない境内は雑草が生え放題だが、「私は全然気にしないの」といたずらっぽく笑った。
 鐘堂は、約240年前に建てられたといわれ、そこにつるされた縦約1メートル、直径約80センチの石は、棒で突くと「コン」と軽い音をたてるだけだ。
 1942年10月1日。当時13歳の佐々木さんは釣り鐘を降ろす村人を見つめていた。「四里(約16キロ)四方」に響き渡り、村人が手を合わせた鐘。戦争で金属類が逼迫(ひっぱく)し、軍は全国の寺から鐘を供出させた。
 「お国のため」と説得されたが、前年は仏具や鍋釜を取られた。今度は物心がつかないころから親しんできた鐘を持って行かれる。無性に腹が立った。
 荷車に積んだ鐘を囲む記念写真に、佐々木さんは一人、そっぽを向いて納まった。近所の家の庭石が代わりにつるされ、表面には「梵鐘(ぼんしょう)記念 昭和十七年十月」と刻まれた。
 さらに、戦局は悪化し、村人が鐘堂脇の斜面に根を張る桜の大木を「畑にする」と切りに来た。「こんな狭い所を畑にして、どれだけ食糧増産できるのか」と抗議すると、申し訳なさそうに帰って行った。子供心に「国の命令で嫌々来た村人の顔が気の毒で見られなかった」という。
 本堂には、金属製仏具の代わりに、国から黒光りしたガラス製の仏具が与えられた。だがある日、出征した婚約者を亡くした若い女性が「突撃」と叫び声を上げながら暴れ、たたき割ったという。
 戦後、住民から「新しい鐘を」と寄付の申し出もあったが、「あの鐘の音は戻らないので」と断ってきた。
 人々の大切な多くのものを奪った戦争。
 「みんな、わが身ばかり大切に思うから戦争は起きるのよ」。普段は温厚な佐々木さんが、石の鐘を見る時だけは表情が厳しくなった。

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