8000人以上が死亡、31万人が被災したとされる横浜大空襲から29日で65年。横浜中華街の復興とともに歩んできた横浜華僑総会名誉会長の曽徳深さん(70)は、平和への願いを込め、これまであまり語ることがなかった自らの戦争体験を語り始めた。 (細見春萌)
一九四五年五月二十九日は、よく晴れた日だった。午前九時二十分ごろの大空襲に、「火が来ているぞ」。住んでいた中華街近くの防空壕(ごう)の戸をたたく音に、慌てて外へ飛び出した。夜間でなく、昼間の空襲は初めて。父は仕事で不在。母と姉二人、三歳の弟と必死に山下公園まで走った。
翌日、近くの炊き出しは「焦げ臭いおにぎりを食べた」とおぼろげに覚えている。山下公園から中華街一帯は、見渡す限りの焼け野原。ニューグランドホテルや県庁など一部の建物だけが残っていた。食べものはなく、雑草を摘んでスープにした。おいしかった。
終戦後、中国が連合国の一員だったため中華街には、物資は比較的潤沢に配給された。小麦粉や砂糖を使って、トタン造りの粗末な小屋の前で両親がドーナツを揚げて売ると、長蛇の列ができた。街は、食料を求める客でにぎわいを見せた。