普賢岳 惨事伝える柿の木

43人の死者・行方不明者を出した雲仙・普賢岳の大火砕流から、3日で丸19年。現場となった島原市北上木場町では、被災しながらも生き延びた柿の木4本が毎秋、実を付け「生き証人」として惨事を伝えている。かつての住民は「いつまでも残したい」と、柿の木の世話を続けている。(篠原太)

 被災前、同地区には約80世帯があり、ほとんどの家で敷地内や畑に柿の木を植えていた。収穫後、家族総出で干し柿を作り、正月前には行商に出かけたという。だが、何度も火砕流に襲われ、民家や畑は焼失。住民は戻れなくなり、土地は国に買い上げられ、砂防工事が始まった。

 柿の木が見つかったのは、噴火終息後の1995年秋。元住民らでつくる「上木場災害遺構保存会」の上田実男会長(76)らが、雑草が巻き付いた柿の木に黄色い実を発見した。火砕流を受けた部分は真っ黒に焦げていたが、残りの部分から新たに芽が出て実をつけるまでに成長していた。

 「よく生き残ってくれた」。上田さんらは除草し、倒れないように添え木をして樹木医に治療を依頼。焦げた部分は除去され、今では幹がえぐられた状態になっているが、春には枝一杯に葉を付け、秋にはたくさんの実がなるようになった。

 柿の木は、かつての生活道路(約400メートル)沿いに4本残っている。2007年に工事用の道路が併設されたため、今後も生活道路を残していきたいと、上田さんが同年に「柿の木坂」と命名し、看板を設置した。「土石流で埋まるなどし、残っている当時の生活道路はここだけ」と振り返る。

 同町で生まれ育った佐原トキエさん(70)(島原市)は、今でも実を収穫しては干し柿を作っている。「懐かしく、どうしても行きたくなるんです」と話している。

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 同市は3日を「いのりの日」と定めている。多くの小中学校では、災害を語り継ぐ集会が開かれ、犠牲者に鎮魂の祈りをささげる。

 午前8時半から午後6時まで、仁田町の仁田団地第一公園にある「犠牲者追悼之碑」、午前9時から午後5時まで、平成町の島原復興アリーナそばの「消防殉職者慰霊碑」に、それぞれ献花所が設けられる。

 火砕流が発生した午後4時8分には防災行政無線を鳴らし、市民が黙とう。平成町の雲仙岳災害記念館では午後7時から、約1000個のキャンドルに火をともす「いのりの灯(ともしび)」が行われる。

(2010年6月2日 読売新聞)

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