父の声宿す桃浦の桜

今年も桜に会いにきた。
 川崎市に住む藤田由紀子さん(60)は毎春、霞ケ浦湖畔の駅にやってくる。
 旧玉造町(行方市)の桃浦駅。鹿島鉄道の古参駅だったが、3年前に廃線になった。木の駅舎は朽ち、赤茶けた砂利を雑草が包む。
 ホームの両脇に、十数本の桜が並ぶ。枝が折れ、皮がはがれていても、妖艶(よう・えん)な空気を醸し出す。散る花びらに身をゆだねると、9歳で別れた父母と再会した気になる。今年は満開に間に合った。
 風が吹いた。枝が悠々と上下した。そのとき、藤田さんには聞こえた気がした。懐かしい父の野太い声が。
 「何があっても生きるんじゃ」
     ◇
 藤田さんが桃浦に住んだのは、半世紀前の3年間だけだ。
 楽しい日々だった。駅近くの霞ケ浦には桃浦水泳場があり、若者でにぎわった。列車はいつも満員。浜で遊ぶと、父は顔ほどもあるカラスガイをとってくれた。花火大会。湖面を染める夕焼け。富士山が見えると父は、「世界一じゃ」と教えてくれた。
 駅の桜は、春夏秋冬、藤田さんのお気に入りの場所だった。桜吹雪、新緑、紅葉。夏は木陰で涼み、冬は雪をまとう姿にみとれた。
 だが、父母は、この桜を避けていた。目もくれず通り過ぎる。戦争が、2人の心の深手となっていたのだ。
 寡黙な父は、酒に酔うと「同期の桜」をつぶやくように歌った。「散りましょ国のため」のあたりで、嗚咽(お・えつ)がとまらなくなった。
 召集され、フィリピン戦線で終戦。敵戦車に体当たりする任務に始まり、けがや栄養失調、果ては自決まであり、部隊の大半を失った。「戦友を見殺しにした」と聞かされたことがある。
 母は学生のころ、東京大空襲に被災した。母親と弟を亡くし、家は燃え尽きた。庭にあった一家自慢の桜が黒こげになった。疎開先では桜が咲いた。「うらめしかった」という言葉が今も耳に残る。
 桃浦での暮らしは、母の病死で終わった。藤田さんは、9歳で東京へ里子に出された。父は各地を転々とし、やがて疎遠になっていった。
 養父母はいい人だったが、実子と比べられ、青春時代はいつも自分を抑えていた。
 結婚し、2人の子に恵まれた。8年後、最愛の夫を事故で亡くす。清掃員、工事現場、保険の外交員と、がむしゃらに働いた。
 「私の人生、どうして、うまくいかないの」。父を恨んだこともある。
     ◇
 8年前、下の息子が就職したのを機に、藤田さんは40余年ぶりに桃浦を訪れた。列車が駅に近づくと、車窓から桜が見えてきた。
 次の瞬間、父の手のぬくもりを思い出した。
 桃浦での最後の春。手をひかれて桜のそばを歩いた時、父は「平和だねえ」と言った気がする。
 父は心の痛みを、この地でやわらげていたのかもしれない。悩み、懸命に生きていたのだ。そう考えた時、積年のわだかまりが消えた。
 ゆくえも分からぬ父との、別れの言葉は「生きるんじゃ」だった。この声を今は、生きる力にできる。
 桃浦での3年を、心の宝物として生きている。
     (吉村成夫)

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