コーラ噴射で、火だるまの父親を救った少年-英紙

英国コーンウォール州モリオンに住むアンドリュー・ワイスさん(52)は、たき火中、体に火が燃えうつり、火だるま状態になったが、そばにいた息子ニコラス君(15)の機転のおかげで九死に一生を得た。

  複数の英メディアが、この事故について報じている。事件はある暑い日曜日に起こった。ワイスさんは、抜き取った雑草を集め、たき火を起こそうとしたが、火がうまくつかず、ガソリンをたき火に注いだ。その直後、火はみるみるうちに燃え上がり、ワイスさんの全身は炎で覆われ、息子のニコラス君に助けを求めた。

  ニコラス君が、2リットル入りコカコーラをつかんで激しく振り、父親に向けて一気に噴射したという。英テレグラフ紙は、ニコラス君は自身の行動を振り返って「本能的に行動した」と語ったと報じている。

  ワイスさんは、妻のアニータさんに付き添われ、病院でやけど治療を受け、皮膚移植が必要だといわれるほどの重症にもかかわらず、幸い命に別状はなかった。医者は、ニコラス君のすばやい判断が父親の命を救ったとし、もしコーラを噴射していなければ、けがが致命的になっていたとの見方を示した。

  ワイスさんは命を救ってくれた息子を「とても分別がある。彼がいなかったら間違いなく大惨事を招いていた。本当に幸運だった」と語った。

  ほかの英紙では、現地の消防署員が、ガソリンの液体にのみ火が付くと思われがちだが、実際には気化したガスが周りに充満しており、非常に危険であり、たき火などには使用しないよう警告したと報じた。(編集担当:桐山真帆子・山口幸治)

地球と暮らす:/105 丸本酒造 自家有機米で酒造り

<水と緑の地球環境>

 日本酒の味を決めるお米。醸造会社「丸本酒造」(岡山県浅口市)は防虫剤や除草剤を一切使用しない有機米から日本酒を製造している。

 蔵元は米選びにこだわるが、「米作りは農家、酒造りは蔵」と法的にしばられていた。丸本酒造はその流れを変えようと関係者に働きかけていたところ、浅口市(当時の鴨方町)は03年、国の構造改革の一環で、全国で初めて酒造会社が直接原料米を栽培できる「酒米栽培振興特区」に認定された。丸本酒造は遊休農地で本格的に自家栽培に着手し、07年から日本農林規格(JAS)認定の有機米を収穫した。

 有機米と認められるのは容易ではない。2年以上農薬や化学肥料を使用しない田んぼで生産しなければならない。加えて、農薬を使っている周囲の田んぼから水が流れ込まない場所を選ぶ必要がある。大量の雑草を取り除くため、気温が40度になる真夏も、社員総出で草取りに追われる。化学肥料の代わりに、刈り取りまでに3回苗を枯らして養分を確保する「三黄造(さんおうつく)り」にも取り組んでいる。

 現在2・5ヘクタールで年間125俵分の有機米を生産。石油原料の化学肥料を使う場合の田んぼに比べて750キロの二酸化炭素排出減という。

 有機米作りのきっかけは、丸本仁一郎社長(46)が数年前に日本酒の販路を海外にも広げようと欧米を訪れたことだった。そこで、「消費者はオーガニックにこだわっている」と痛感。長女がアトピーを発症していたことも環境への関心を高めた。

 日本には2000軒近い醸造元があるが、有機米で日本酒を製造しているのは10軒程度という。丸本社長は「安全・安心とおいしさを追求した日本酒を通して、他の醸造元や消費者が環境を意識するようになってほしい」と話す。【田中泰義】

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 江戸時代末期の1867年に創業した。蔵など11施設は、田園と一体になった歴史的景観を保ったとして、国の有形登録文化財に指定された。有機米の商品は「農産酒蔵」「竹林かろやかオーガニック」(720ミリリットル、2478円)。問い合わせは丸本酒造(電話0865・44・3155)。

撤去後7年移設先決まらず・・・人吉城跡の子守唄歌碑

人吉市の人吉城跡に市民有志の手で建てられた「五木の子守唄(うた)」の歌碑が、国史跡指定に伴う城跡整備で撤去された後、城跡内の職員駐車場に7年近く、置かれたままになっている。市は、多額の移設費用がかかることや、適した移転先が見つからないことを理由としているが、市民からは「野ざらし同然で、市民の思いが込められた碑の存在が忘れ去られてしまう」と心配する声が上がっている。(佐々木道哉)

 市によると、歌碑は自然石製で高さ約3メートル、周囲約2メートル。石碑に書かれた歌詞は、歴史小説「それからの武蔵」などで知られる相良村出身の作家・小山勝清(1896~1965年)の手によるもので、1954年、球磨川に架かる水の手橋近くの城跡内に市民の浄財で建てられたという。

 相良氏が築いた人吉城跡は、61年に国史跡に指定。63年度から櫓(やぐら)や長塀などの保存修理事業が始まり、歌碑は2003年度の発掘調査の際に撤去された。

 文化庁は国史跡の指定を受けた中世・近世城郭について、「江戸時代の姿に近づけるため明治以降に造られた建物や石碑などは原則として撤去するのが望ましい」との見解で、子守唄の歌碑は城跡内に戻すことはできない。

 そこで市は、市内にある民間美術館跡地への移設を検討したが、費用が約500~600万円に上ると試算され、実現しなかった。歌碑は現在、職員駐車場の片隅で雑草に埋もれ、ブルーシートをかけられた状態で置かれている。

 市教委は23日、移設に向けた内部協議を始めたが、「歌碑の所有者が分からず、市が費用負担するかどうかや移設場所の検討を進める」としている。

 市に早期の移設を訴えてきた益田啓三さん(60)(人吉市九日町)は「郷土の大作家や市民の思いが込められた歌碑なので、早く適した場所に移すべきだ」と話している。

(2010年4月24日 読売新聞)

ピンクのバッタ発見

豊橋市上野町に住む主婦、森田恵美さんが22日、自宅の庭先でピンクのバッタを見つけ、同市自然史博物館(総合動植物公園内)に届けた。

 キリギリス科の一種クビキリギスで、体長約6センチ。本州以南の平野部草原に広く分布する。春に卵からかえり、秋に成虫となって越冬。春暖かくなると、夜「ジー」と鳴き、交尾して産卵、初夏には死ぬ。

 通常、緑色をしているが、まれにある色素が欠乏して、赤色系のピンク色をした個体が出現することがある。

 持ち込まれたクビキリギスはオス。昆虫専門の主任学芸員、長谷川道明さんは「今まで年に1、2度は珍しいバッタを見つけたと言って、小学生らから、ピンク色をしたバッタの写真などを送ってくることがある。生きた個体を博物館で飼育するのは初めてだ。えさはイネ科の雑草でよく、2週間ほど生かせられればと考えている」と話す。

 23日からイントロホール付近で展示する。(山崎祐一)

つながり、支え合う命=渡辺眞子

大切な犬が闘病の末に旅立ったとき、心にぽっかり空いた空間を埋めるように花を買った。いくつもの花瓶に入りきらなくなるとコップに挿し、それでも足りないから鉢植えを購入した。室内とベランダが色とりどりの花々と香りであふれても、胸は空っぽだ。けれど植物の生命力なのか、瑞々(みずみず)しさを含んだ空気が安らぎをくれた。

 そんなころ、栃木県で開業する柿沼綾子獣医師から届いたカードには、花を送る代わりに私の犬たちの名前でブドウの苗を植えたことが綴(つづ)られていた。2年後に、成長した木から収穫した果実でつくったワインが届く予定だという。

 足利市にある「こころみ学園」は、50年代に川田昇園長が私財を投じて設立した成人知的障害者更生施設である。園生たちの自立を目指して始めたワインづくりのため、平均勾配(こうばい)38度の山麓(さんろく)を開墾するという厳しい労働は、彼らの心身を鍛えて未来を拓(ひら)いた。毎日の作業はいつしか園生をたくましい農夫に育てあげ、丹精込めたブドウから生まれたワインは九州沖縄サミットの晩さん会で乾杯用に選ばれるまでになったのだ。今や日本有数のワイナリーと呼ばれるココファームは年間約15万本を生産し、収穫祭には周辺道路が渋滞するほどにぎわう。ウッドデッキのおしゃれな隣接カフェは人気スポットだ。

 急斜面の畑では除草剤を使わず、園生らは手作業で黙々と雑草を取り除く。柿沼獣医師は私が学園を訪れたとき目印になるようにと、私の犬たちの木の根元にバラを植えた。けれど「これは草だよ」と園生に抜かれてしまうのだと、カードの最後に記されていた。

 夏に向かって草木がまぶしさを帯びる季節。ブドウ畑にも無数の芽吹きが宿り、山全体が豊かな緑に覆われるころだろう。四季はめぐる。人を思いやる気持ちは相手に寄り添い力となる。あらゆる命がつながり合い、支え合い、生かされていることを感じさせる。

 私はちゃんと生きているだろうか。誰かの、何かの、社会の、小さな役に立てているだろうか。約束通りに届いたワインボトルの奥で、淡い琥珀(こはく)色の液体が揺れた。山を吹き渡る風に乗り、働き者の農夫の声が聞こえる気がした。「これは草だよ」(作家)

毎日新聞 2010年4月22日 東京朝刊

住民の「かたくり祭」笑顔満開

松本市波田の西部、上海渡地区の山の斜面を、小さな紫色の炎のようなカタクリの花が覆う。約4000平方メートルの斜面に約3万株。その中の遊歩道を、造園業、奥原大司さん(72)(松本市波田)がゆっくり歩く。病気の葉を見付けては、つみ取っていく。

 「咲いたって聞いて、行かなんじゃいられなんだよ」。つえをついた高齢の女性が、奥原さんに声を掛ける。「今年はほんと、きれいに咲いたねえ」。しきりに感心する女性に、奥原さんは「おばあちゃんもきれいよ」と返す。奥原さんの行くところ行くところ、話の花も咲く。

 奥原さんは、地元有志でつくる「16区カタクリ園友会」の会長を、2001年の発足時から務めている。会員は40~80歳代の45人。「かたくり祭」は今年で10回目を迎えた。

 「ちょっと見に来いや」。1994年頃、奥原さんは、この斜面の地主に呼ばれた。養蚕業の衰退で不要になり、枯れた桑の木や雑草の陰にカタクリの群生があった。「こんなのあっただか」。波田で生まれ育ったのに知らなかった。

 これはもったいないと周囲の人に呼びかけ、97年から草刈りを始めた。会員と協力して、年2回草を刈り、落ち葉を除く。やぶになった斜面での作業は大変だが、坂になっているおかげで、下向きに花を付けるカタクリが、下から美しく見えるのだ。

 1万株程度だったカタクリが増え始めると、今度は斜面の一部をクワでならして遊歩道を造り、ベンチを置いた。ほかの山野草についても、名前や説明を書いた札を作った。口コミで評判が広まったのか、祭りの時には県外ナンバーの車も目立つ。会場のテントには、お茶と漬けものと会話を楽しむ人が絶えない。

 カタクリは朝露や雨で、花弁が閉じてしまう。霜や雪にも弱く、見頃は天候次第。桜の花よりもはかない。今年は祭り直前の17日に雪が降り、斜面が真っ白になった。「今年はいけねえかなって。あんな心配はないよ」と、奥原さん。今は元気に咲いているカタクリを、自分の子供の成長を喜ぶように見つめる。手がかかり、気をもむが、ぱっと一斉に咲き乱れるのを見ると、苦労も吹き飛ぶ。「みんなに幸せだわって喜んでもらえるとやりがいあるよ」と、顔をくしゃくしゃにした。

 祭りは25日まで。午前9時半~午後4時。入園料は高校生以上200円。

    ◎

 20日朝、平日にもかかわらず、県内外から園児や高齢の夫婦、親子連れが大勢集まっていた。奥原さんは、野草の名前を尋ねられたり、花を褒められたり、数メートル歩くごとに声を掛けられ、なかなか進めない。「忙しくて」と笑うが、なんだか誇らしそうだ。旧波田町は4月から松本市に編入合併した。地域を愛する、こうした人たちの活動が、波田の名をずっと残していくのだろう。(石井千絵)

(2010年4月21日 読売新聞)

城端SA ヤギ歓待 東海北陸道 高原イメージ 5匹で開園

除草も仕事
 富山県南砺市の東海北陸自動車道の城端サービスエリア(SA)に17日、ヤギ園がオープンした。開設した中日本高速道路会社(名古屋市)によると、ヤギと触れあえる全国唯一のSAという。

 家族連れらに動物とのふれ合いを楽しんでもらうだけでなく、のり面などの雑草を食べさせて除草する“一石二鳥”効果が目的。草刈り機や刈り草運搬車両を使う回数も減り、同社は「二酸化炭素(CO2)削減効果もある」とアピールする。

 以前は均一的にSAを整備したが、豊かな自然環境や標高の高さなど地域の特徴を考慮。同SAには高原をイメージしてヤギ園を開設した。生後五カ月~二歳の五匹を約三百平方メートルに放牧。SAから近い世界遺産の五箇山集落にちなみ、合掌造り風のヤギ小屋も建てた。雪が積もる冬期は、ヤギを富山県内の農業高校に移す。

 開園式には、関係者や地元の幼稚園児ら約五十人が参加し、園児たちがそれぞれのヤギの名前を除幕。園内に入ってヤギに餌を与え「かわいい」と大はしゃぎだった。

 同社によると、高速道路の除草用に約二十年前から数年間、栃木県の東北自動車道でヤギを飼育した例がある。SAではなく高速道路脇で飼い、ドライバーらは近寄れなかったが、地元住民に開放していたという。

滞在型へサービス加速
 日本道路公団が二〇〇五年十月に民営化されてから、高速各社はトイレを含むSAの整備や人気店舗などの誘致を重視。土日祝日に上限千円となる「特別割引」が始まった〇九年三月以降、SAの売上高が堅調なこともサービス強化を加速させた。

 中日本高速道路会社は、SA内へのコンビニ店の出店を進め、カフェブームに乗り「スターバックスコーヒー」を出店させたSAも。尼御前SA(石川県加賀市)では二月、茶屋街のような外観にリニューアルされた二十四時間営業のコンビニ店がオープンした。

 駅弁をもじり、高速道路の「速」をとった「速弁」を商品化して販売したり、石川県出身の有名パティシエと提携したオリジナルのクッキーを売ったりするSAも。最近では北陸の食をPRするキャンペーンとして三~四月、有磯海SA(富山県魚津市)など十カ所で、地元産食材を使ったメニューを提供し、利用者に喜ばれた。

 社員から「公団時代は考えられなかった」との声が上がる取り組みに、中日本高速の金沢支社は「SAは高速道路会社が収益を上げることが認められている唯一の場所。売り上げを伸ばし、多くの人に立ち寄ってもらえるよう、魅力を高めている」と力を込める。

 中日本高速は今年、四十二億円を設備リニューアルに投入する計画で、東名高速道路の足柄SA下り線(静岡県小山町)には、国内の高速道路で初めて、ペットを同伴できるドッグカフェを導入。十店以上のレストランや店を集める複合商業施設にする。

 「従来の通過型SAから、滞在型SAに軸足を移す」と、中日本高速の矢野弘典会長。「高速SA自体が目的地」という大型連休の過ごし方が生まれるかも。 (宮本隆康、大島康介)

らっこ・アーティスト:エポカ・ヂ・オウロ ショーロ黄金の日々

02、03年とエポカ・ヂ・オウロが訪日を重ねたころ、輸入盤店ワールドフロアの一角に、突如“カフェ・ミュージック”なる棚が出現していた。大ヒット作「カフェ・ブラジル」にあやかろうとしたらしい。7年後、さすがに意味不明のコーナーは姿を消すが、彼らの紡ぐ伝統の重みは変わらない。エポカは、生けるショーロの伝説なのだ。

 ショーロは、19世紀半ばのリオで誕生した器楽アンサンブル。ポルトガル語の“ショラール(chorar)=泣く”が語源だが、万事、旧宗主国の恩恵を否定したがるブラジル。大農園のアフリカ系奴隷が、祭日にのみ許されたダンスパーティー“ショロ(xolo)”起源説を好む傾向あり。

 ショーロは、サンバの厳格な父にあたる。雑草のごとくたくましい放蕩(ほうとう)息子は、全土で時代ごと節操なく形を変えるが、父親のほうは頑固一徹。ほとんど昔日のスタイルを崩さない。

 79歳でプロモーション来日した(普通するか?)、パンデイロの達人ジョルジーニョへ問う。“黄金時代”を名乗る集団にとって、黄金時代とはいつなのか。

 「30~50年代だ。キャバレーにシネマ、ラジオやサロンにショーロがあふれていた。63年ツイストの流行で、一気にブラジル音楽全体が落ち込んだ。仕事も厳しくなった」と、いたって正直。05年ベルリン映画祭出品、ミカ・カウリスマキ監督作「ブラジレイリーニョ」では、「ショーロにとって今に優る時代なし」とナレーションでぶち上げるが、90年代末以降の栄華も、往時の比ではないらしい。

 なんせジョルジーニョ御大は、ショーロ全盛期の巨星らを目撃した、最後の生き証人なのだ。

 「わが家じゃ毎週末、プロアマ問わず音楽家が集まり、ショーロの輪(セッション)を繰り広げていた。ピシンギーニャやベネヂート・ラセルダもいた」

 両者はショーロ史に名を刻む管楽器奏者。もうひとり忘れちゃならんのが、ジャコー・ド・バンドリン。エポカ創設者だ。

 「ジャコーは良き時代へのオマージュとして、エポカ……と命名したんだろう。当時ショーロ集団は名を持たず“レジオナル(地方色集団)”と呼ばれ、彼はその蔑称(べっしょう)を嫌ってた。彼は偉大だな。永遠に私らは、ジャコーの音楽を語り続けるのだから」

 開祖の死後、エポカは4年の休止を余儀なくされるが、73年に復活。メンバーを刷新しつつ今日に至る。バンドリン(フラットマンドリン)、カヴァキーニョ、6弦ギター、7弦ギターにフルート。オリジナル・メンバー唯一の長老が、緩急自在のアンサンブルをパンデイロで統率する。ショーロを志す後進にとって最高の規範が、ぶれないエポカの気品にみちた至芸なのだ。7年ぶりの来日公演、息子の人気パンデイロ奏者も駆けつける。(音楽ライター・佐藤由美)

自立の島

袋がけされたビワの木の間を縫って山道を歩くこと1時間。そびえる棚田に息をのむ。石積みには大石が交じり、城壁と見まがう迫力。気の遠くなるような積み重ねに、島人の粘り強さと子孫への思いを知る▲
 先ごろ山口県の祝島を訪ねた。上関原発建設予定地から4キロ沖の周防灘に浮かぶ。眼下に絶え間なく船が行き交う、交通の要所。水平線上に佐田岬半島の影が連なり、夜には伊方の町の光が見えるという▲
 循環農業を試みる農園に向かった。放し飼いの豚が集まってくる。雑草を食べ、鼻先で土を掘り起こす。休耕地を復活させた働き者だ。フンは肥料になり、最後は良質の肉を提供する▲
 宿では新鮮なタイの刺し身やメバルの煮付けをいただいた。周辺海域は魚の宝庫。自然の恵みはかけがえのない財産だ。だからこそ、島の人の多くが原発建設に反対してきた。予定地は漁港の対岸。埋め立ては死活問題だ▲
 考え方はシンプルなんです。島の男性が言う。海の生物をはぐくむ藻場を守りたい。子どもたちに安心なものを食べさせたい。だから海は売らない―▲
 お年寄りを筆頭によく働き、集う。活力にあふれる島だ。引きつけられ、訪れる人が後を絶たない。観光ではなく作業の手伝いに来る若者。希望して転入してきた小学生も。「足るを知る」生活で自立を目指す島には、お金に換えられない魅力がある。

父の声宿す桃浦の桜

今年も桜に会いにきた。
 川崎市に住む藤田由紀子さん(60)は毎春、霞ケ浦湖畔の駅にやってくる。
 旧玉造町(行方市)の桃浦駅。鹿島鉄道の古参駅だったが、3年前に廃線になった。木の駅舎は朽ち、赤茶けた砂利を雑草が包む。
 ホームの両脇に、十数本の桜が並ぶ。枝が折れ、皮がはがれていても、妖艶(よう・えん)な空気を醸し出す。散る花びらに身をゆだねると、9歳で別れた父母と再会した気になる。今年は満開に間に合った。
 風が吹いた。枝が悠々と上下した。そのとき、藤田さんには聞こえた気がした。懐かしい父の野太い声が。
 「何があっても生きるんじゃ」
     ◇
 藤田さんが桃浦に住んだのは、半世紀前の3年間だけだ。
 楽しい日々だった。駅近くの霞ケ浦には桃浦水泳場があり、若者でにぎわった。列車はいつも満員。浜で遊ぶと、父は顔ほどもあるカラスガイをとってくれた。花火大会。湖面を染める夕焼け。富士山が見えると父は、「世界一じゃ」と教えてくれた。
 駅の桜は、春夏秋冬、藤田さんのお気に入りの場所だった。桜吹雪、新緑、紅葉。夏は木陰で涼み、冬は雪をまとう姿にみとれた。
 だが、父母は、この桜を避けていた。目もくれず通り過ぎる。戦争が、2人の心の深手となっていたのだ。
 寡黙な父は、酒に酔うと「同期の桜」をつぶやくように歌った。「散りましょ国のため」のあたりで、嗚咽(お・えつ)がとまらなくなった。
 召集され、フィリピン戦線で終戦。敵戦車に体当たりする任務に始まり、けがや栄養失調、果ては自決まであり、部隊の大半を失った。「戦友を見殺しにした」と聞かされたことがある。
 母は学生のころ、東京大空襲に被災した。母親と弟を亡くし、家は燃え尽きた。庭にあった一家自慢の桜が黒こげになった。疎開先では桜が咲いた。「うらめしかった」という言葉が今も耳に残る。
 桃浦での暮らしは、母の病死で終わった。藤田さんは、9歳で東京へ里子に出された。父は各地を転々とし、やがて疎遠になっていった。
 養父母はいい人だったが、実子と比べられ、青春時代はいつも自分を抑えていた。
 結婚し、2人の子に恵まれた。8年後、最愛の夫を事故で亡くす。清掃員、工事現場、保険の外交員と、がむしゃらに働いた。
 「私の人生、どうして、うまくいかないの」。父を恨んだこともある。
     ◇
 8年前、下の息子が就職したのを機に、藤田さんは40余年ぶりに桃浦を訪れた。列車が駅に近づくと、車窓から桜が見えてきた。
 次の瞬間、父の手のぬくもりを思い出した。
 桃浦での最後の春。手をひかれて桜のそばを歩いた時、父は「平和だねえ」と言った気がする。
 父は心の痛みを、この地でやわらげていたのかもしれない。悩み、懸命に生きていたのだ。そう考えた時、積年のわだかまりが消えた。
 ゆくえも分からぬ父との、別れの言葉は「生きるんじゃ」だった。この声を今は、生きる力にできる。
 桃浦での3年を、心の宝物として生きている。
     (吉村成夫)