<木食白道(もくじき・びゃくどう)の足跡をたどる>
大菩薩嶺(だいぼさつれい)のふもとに広がる甲州市塩山上萩原の上原(わはら)地区は、甲府盆地を挟んで南アルプスを見渡す景勝地だ。20軒ほどの集落の外れに地蔵堂があり、木食白道作の子安地蔵菩薩(ぼさつ)像が安置されている。高さ228センチ。1本の木を削って作られ、やはり胸に小さな子を抱く。
白道はここから西に約300メートルの場所で生まれた。現在建っている古民家は、骨組みの形などから白道の生家そのものの可能性があるとされる。
今、ここには米国人の翻訳家、松島ケンさん(48)と妻美佳子さんが暮らす。夫妻はこの家を修復し、02年10月に東京都内から移住した。「ありがたいお坊さんゆかりの土地だと、家を購入する前から聞いていました」と松島さんは流暢(りゅうちょう)な日本語で語る。
白道の存在を示すのは、敷地の外れにある風化した墓石だ。わずかに「木食」の文字を読み取ることができる。松島さんは「白道の親族が建てたそうです。今も歴史好きの人が『墓石を見せてください』と来るので、たまに雑草を刈ったりしていますよ」と笑顔で話してくれた。
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白道が生まれたのは1755(宝暦5)年。現在も地区に多い小野姓で、幼名は千蔵だった。貧しく病身だった父は、妻に家督を譲り、諸国巡礼に出た。6歳だった白道も父と共に故郷を旅立った。
白道は19歳で身延出身の木食僧・行道(ぎょうどう)に出会い、師と仰いで共に旅をすることになる。「木食」とは、米や麦などの五穀や塩を断つ修行「木食戒」を行った僧侶のこと。最期は生きながら地中に入り即身仏(ミイラ)になる苦行だ。
白道は行道と1778年に北海道に渡り、仏像作りを始めた。県立博物館学芸員の近藤暁子さん(37)は「当時の北海道は飢饉(ききん)が激しく、真っ先に犠牲になる子供たちを救いたいと感じたことが、子を抱いた仏像というモチーフにつながったのかもしれません」と話す。
3年後、白道は行道と別れて塩山に戻り、母親と再会する。上原の子安地蔵、上条集落の百観音菩薩像は共にこの時期の制作で、白道作品としては最大級だ。その後白道は現在の東京・多摩地区や長野県などを回った。人々の求めに応じて大小さまざまな木像を作っては与え、1825(文政8)年に71歳で現在の大月市で病死したと伝えられる。
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「まるで口笛でも吹きながら彫ったかのように、軽やかかつ自由奔放ですね。それでいて神がかっている」と甲州市教委文化財担当の飯島泉さん(44)は白道の作風を解説する。
行道の微笑仏は、大正期に民芸研究家の柳宗悦による研究で広く知られる存在になったが、白道は小型の作品が大量にあるために全容が把握されず、近年でも評価が定まっていない。
「寺の本尊になる行道の作品と異なり、白道は民衆の求めに気楽に応じて、何でもぱっぱと削っていたという感じでしょう」と飯島さんは推測する。白道は現世利益の神である恵比寿や大黒天像なども作ったほか、これらの像を大量生産できるよう定型化した。
その結果、塩山には多くの民家に微笑仏が存在する「全国的にも珍しい」(飯島さん)地区ができた。旧家を訪ね歩くと、それぞれの物語を耳にすることができる。【中西啓介】