花を愛でて、土をいじる。広まる園芸の心

河内長野市で園芸のボランティア活動をする人が増えている。同市高向の府立花の文化園を拠点に、草花をめでて土に触れる活動を続けるNPO法人「フルル花と福祉の地域応援ネット」。2003年の発足時のメンバーは44人だったのが、今や237人にまで増えた。病院や学校でも色とりどりの花を咲かせ、人々に癒やしの空間を提供している。

 府立花の文化園を歩くと、せっせと苗を植え、雑草を引っこ抜く黄色のエプロンをした人たちがいた。聞くと、週に2度、同園でこうした活動をしているのだという。男性職員は「本当によく支えてもらっています」と話し、感謝を惜しまない。

 始まりは03年。同園であった園芸の基礎知識を学ぶ講座を受けた44人が、ボランティア団体を立ち上げた。設立当初からかかわる金子研吉理事長(67)は「退職して何か社会貢献できないかと思っていたところだったので」と振り返る。

 以降、毎年1年間の養成講座を終了した人が順次NPOに入り続け、大阪市や堺市など地元以外の人もメンバーに入った。昨年の講座を終了した約50人がこのほど入り、237人に。さらに5月から始まる講座にも応募が相次いでいる。「趣味を通じて社会貢献できる達成感」が魅力のようだ。

 園外での活動もさかんだ。市内の幼稚園や小中学校に出向き、文化園で育てたパンジーなどを無償配布して育て方を子どもたちに指導している。近くの大阪南医療センターや知的障害者施設「金剛コロニー」でも、花壇に花を植えて喜ばれている。そうした取り組みを重ね、昨年10月にNPO法人化した。

 金子理事長は「花と植物を勉強して土に触れるのはいいですよ。来園者と話ができるのも楽しみ。文化園は橋下知事から運営見直しを指摘されたけど、ボランティアの模範となり、府民の方々にもっと知ってもらいたい」と話している。養成講座の応募は18日まで。問い合わせは花の文化園(0721・63・8739)へ。

サクラ、花ごとボトボト 蜜を吸うスズメの仕業です

ヒラヒラと花びらが舞うサクラの散り方に「異変」が起きている。花の蜜を吸うことを覚えたスズメが、がくごと花を食いちぎっているからだ。ここ数年で急増し、花がボトボトと落ちるようになった。空き地が減り、この季節のえさになる雑草の種などが減ったことが一因とみる専門家もいる。

 桜並木で有名な兵庫県宝塚市の「花のみち」。満開のサクラの根元を見ると、丸ごとポトリと落ちた花が、あちらこちらに散らばっている。花の付け根には食いちぎられたような跡がある。見上げると、「チュンチュン」とスズメがさえずりながら、枝から枝へと渡っていく。

 「かつては注意してやっと見つかる程度だった現象だが、この数年は、どこでも見られるようになった」と、日本野鳥の会大阪支部長の平軍二(ひら・ぐんじ)さん(72)は話す。

 スズメがサクラの蜜を吸う行動は、1980年代半ばに東京の写真家が気づき、野鳥愛好家の間で話題になった。その後、全国各地から報告が相次ぎ、戦前から見られる行動だということが分かった。ただ、発見例は少なく、時々観察される程度だった。

 サクラには、メジロやヒヨドリなども集まり、花の中にくちばしを深く入れて蜜を吸う。しかし、くちばしが太く短いスズメは同じように吸えないため、がく側から吸い取ろうと、花ごと食いちぎる。

 なぜ、こうした行動が今、増えているのか。

 スズメのえさは、雑草の種子や虫などだが、冬を越えたこの季節は種子もあまり残っていない。虫もやっと出始めた時期で、食べられるものが少ない。

 都市鳥研究会代表で、スズメの生態に詳しい唐沢孝一さん(66)は「各地で空き地が減って、この時期のえさがさらに減り、サクラの蜜を吸う行動が徐々に広がってきていた。野鳥などに時々見られることだが、こうした知恵のあるスズメが増えて、食べ方が伝わった結果、ここ数年で急激に広がったのではないか」と話している。(小林裕幸)

芝桜咲く渋田川沿い気持ちよく、住民が川底まで清掃/伊勢原

芝桜が土手を覆うように咲くことで知られる伊勢原市上谷の渋田川沿いで27日、地元住民やボランティアによる清掃活動が行われた。川の水量を調整し、川底の瓶や缶までを回収した。毎年多くの見物客が訪れるだけに、参加者は「これで気持ち良く見てもらえるのでは」と話していた。

 清掃は地元の芝桜愛好会(石田太一郎会長)と芝桜応援隊(多田斡美会長)などが毎年行っており、今年で14回目。上谷地区の神社には約80人が集合、ごみを入れるビニール袋を手に同川の上谷橋から中ノ橋までの約600メートル間の土手などで雑草、折れた枝、空き缶、空き瓶などの回収を行った。

 上流で水量を調節、水のなくなった川底に参加者は長靴姿で降りて泥に沈んでいた缶、瀬戸物の破片なども回収していた。石田さんは「毎年大勢の人が見に来てくれている。きれいになり喜んで帰られるでしょう」と話していた。

 同川の芝桜は、40年以上前に住民が植えたことから始まり、協力する人たちを含め花植えの輪が広がり、季節になると右岸の土手約600メートルにわたりピンクや白の芝桜が咲き誇る。かながわ花の名所百選に選定されている。4月3日から24日まで、同川周辺で芝桜まつりが開催される。

『万能』生んだ向上心 巨人・木村コーチを悼む

木村拓也コーチは、昨季巨人で現役引退するまで3球団を渡り歩いた。19年もの間、プロ野球選手としてやってこられたのは、並々ならぬ執念に尽きると思う。

 元来、抜群に器用だった。捕手として入団したが、俊足と強肩を生かそうと外野手に転向。さらに内野手にも挑戦した。どのポジションでも成功したのは、レベルの高い野球センスのたまものだが、空いているポジションに何とか潜り込もうとする、プロとしての貪欲(どんよく)な向上心が最も大きな理由だった。

 集大成といえるのが昨年9月4日のヤクルト戦。延長十一回に捕手の加藤が頭部に死球を受け退場。巨人は、3人の捕手登録選手すべてがいなくなった。続く十二回、マスクをかぶったのは木村コーチ。10年ぶりのポジションだったが、3投手を落ち着いてリード。無失点で乗り切り、勝ちに等しい引き分けに結びつけた。

 「こういう時のために若い時からやってきた」。突然の舞台を見事に演じきったユーティリティープレーヤーの精根尽き果てた、それでいて最高に誇らしげな表情は今でも目に浮かぶ。

 そして日本シリーズを制した夜、札幌で行った引退会見。「日本一になってうれしいのと、もう野球をやらなくていいんだというほっとした気持ちが両方ある」ともらした。出番は約束されていない。だから、いつ出場の指令が下ってもいいように万端の準備を怠らなかった。毎シーズン、常に厳しい競争を戦い抜いてきた男の偽らざる心境だったろう。

 今季、そんな“雑草魂”を次代に伝えていく指導者の仕事に就いたばかり。球界は惜しい人材を失った。 (高橋隆太郎)

淀川区の市住で不審火が相次ぐ

5日午後3時50分から4時20分にかけ、大阪市淀川区東三国の市営東三国住宅1号棟(14階建て)の5つのフロアの計7カ所でプラスチックケースや傘立て、掲示板のポスターなどが焼ける不審火が相次いだ。

 けが人はなかったが、いずれも火の気がなく、淀川署は連続放火の可能性が高いとみて捜査している。

 淀川署によると、4日午後にも近くのマンションの敷地で雑草などが焼ける不審火があり、関連を調べている。

ふじみ野市:旧新河岸川を整備、自然保護ゾーンに /埼玉

ふじみ野市は新年度、富士見市境にある旧新河岸川を自然のままで残しながら整備する。「市立春の小川ビオトープ(動植物の生息空間)づくり」の協働管理協定を結んでいる県生態系保護協会ふじみ野支部と連携し、人と野生動植物が共生する自然保護ゾーンにする。

 旧新河岸川は、同市下福岡から下流の富士見市伊佐島にかけての約1・5キロ。流路は2~3メートルの小川。コンクリート護岸がなく、メダカやホタル、カモ類を始めイタチやキツネのほか、県の準絶滅危惧(きぐ)種のホンドカヤネズミが目撃されることもある。

 同支部は「子どもたちに豊かな自然を残し共存のまちづくりの拠点として見守って」とアピールした看板を設置。外来種の雑草を刈り取ったりごみ拾いを実施して市が清掃センターへ運び、不法看板を撤去するなど協力する。支部長の野沢裕司さん(62)は「家族で自然観察を楽しめる場に整備したい」と話している。【藤川敏久】

子育てさがし 七草農場の小森健次さん・夏花さん

◎地域で息子の成長見守られ 自然と向き合う生活

 中央アルプスを望む長野県伊那市で有機野菜などを生産する「七草農場」を2005年から始めた小森健次さん(33)、夏花さん(33)夫妻。農作業をする2人の傍らには、長男一心君(3)がいる。地域全体で子どもの成長を見守ってくれていると感じながら、毎日の生活を楽しんでいる。

 ▽「百姓」になりたい

 健次さんは専門学校を卒業後、いろいろな物を見たい、人に会いたいと北は北海道の知床、南は沖縄の離島でアルバイトをしながら生活。米国のアラスカに行ったこともあった。米国で自然について学ぶワークキャンプで夏花さんと知り合い、夏花さんの知人を介して、家族で自給自足の暮らしをしている「あーす農場」(兵庫県)を03年に訪れたのがきっかけで、農業をしようと決めた。

 「何でも自分でやっているのを見て、面白そうでした。農業だけではない、自分も生活に必要な技術を身につけて、百の仕事ができる『百姓』になりたいと思いました」

 お互いの目指す姿、価値観が重なり夏花さんと結婚後、04年に埼玉県の農家に約1年間住み込み、農業研修を受けた。2人で各地を訪ね歩き、就農する拠点を探し始め、研修先の先輩の紹介を受け長野県伊那市にたどり着いた。

 「いろいろな物件を見ましたが、すぐに住めそうな家はなかなかなかった。日照時間や害虫が少ないなど農業を始めやすい環境も大事ですし。なかなか見つからず焦り始めていた時に、ようやく理想の場所が見つかりました」

 七草がゆを食べて無病息災を願うように、作った野菜を食べてくれた人が元気で幸せになったらいいな、という気持ちをこめて名付けた「七草農場」は、耕作放棄地を再び畑にするために、石拾いや草取りから始まった。田んぼ5アール、畑45アールだったのが、現在はそれぞれ倍程度に面積を広げ、年間50種類の野菜や米を、個人契約の約80人とレストランや自然食品店などに販売している。

 「最初はバケツがいっぱいになるまで石拾いの繰り返しでした。農業研修を受けた埼玉県とは気候が違うので、種をまく時期も違ったり、苦労はしました。野菜を冬に保存する方法も知らなくて、聞くのは周りの人たち。この辺の人は何でも知っているし、たいていのことは何でもやる。『別の仕事を主にして働きながら農業をやったほうがいい』と言われたけど、農業とともに生きるためにすべてをできるようになろうと思っていたので、まったく考えなかったですね」と健次さん。

 農場には健次さんが作ったビニールハウスが2棟あり、肥料は飼っている鶏約50羽のふんと米ぬかを混ぜて発酵させた「ボカシ」を作る。鶏のえさも、野菜のくずや知人の豆腐屋からもらうおからなどを使っている。日本ミツバチも育てて、はちみつも収穫する予定だ。みそやしょうゆも自家製で、買う食べ物は肉類や乳製品、ほかの調味料ぐらい。

 「まき割りをしたり、肥料に使う落ち葉を集めたり、畑での仕事以外にもやることはいっぱいある。自分で考えながら、やるのは楽しいですよ。大変なこともあるけれど、自分たちの暮らし、仕事、いろいろなことを自らの手でつくり上げる、そんな毎日はとても創造的です」

 ▽赤いくわ

 夏花さんは06年8月に一心君を自宅で出産。前日まで畑で働き、1カ月後には仕事に戻った。一心君は生まれてから多くの時間を畑で過ごしている。

 「病院の分娩台の上で産むのは想像できなかったんです。出産って自然のことだから自由に家で産みたいなと思って。自宅だと精神的に落ち着けるし、入院する準備もいらないので、わたしにとって安心できました。畑に出た後の夜に陣痛が始まったので、助産師さんを呼んで、翌朝に産みました」

 「畑で一緒にずっといるけど、何も息子のために時間を取ることができなかったので、一時期悩んだこともありました。でも地元の友だちに『そばにいるだけでもいいんだよ』と言われて、迷いがなくなりました」

 一心君が自分で歩き回るようになる1歳過ぎまでは、寝ている間に、夫婦で早起きして収穫作業をしていた。今は一緒に畑へ行くが、野菜の収穫がある農繁期は忙しく、十分に構うことはできない。横で遊んでいたり、泣いていたり、何かを手伝おうと、見よう見まねで種まきや水やり、雑草取りもする。

 「じゃまになったりすることもあるんですけど、農作業は何かとやりたがる。教えたわけではないのに、作物を踏み荒らさないように歩いたり、収穫した大豆の良しあしに応じて4段階に選別するのもある程度できるようになりました。畑仕事の手伝いは結構できますね」と健次さん。

 「もう少し穏やかに接してあげたいとは思いますが、忙しくてなかなかできない。疲れてイライラして、八つ当たりみたいになることもある。でもそれは自分の都合であって、息子の責任じゃないから何とかしたいな。子どもに怒るのってたいていは大人の都合なんですよね」と夏花さん。

 農閑期に動物園や水族館に行ったこともあるが、遠出はなかなかできない。この春から一心君は保育所に通うことになった。

 「泳げる時期に海へ連れて行きたいけど、農繁期だから難しいですね。出ようと思えば出ることもできますが、ハウスの温度とか気になったりして落ち着かないんですよ」

 「3歳までは親と一緒に暮らし、それからは子どもの世界を自由に羽ばたいてほしいと思っていました。子ども同士で遊ぶ楽しさも覚えたようですし」

 昨年8月、一心君の誕生日のリクエストは「赤いくわ」。近所のホームセンターで前日に購入し、夏花さんがくわの柄をペンキとビニールテープで赤くして、忙しい出荷作業の合間に渡した。大人用で大きいくわだが、ずるずる引っ張って隣の大好きなおばさんに見せに行ったり、得意気に土を掘り返していたという。

 「別に農業にかかわる物を言うように仕向けてないのに、何回ほしい物を聞いても『えーとねー、赤いくわ!』と答えるので、本気でプレゼントしました。気に入ったみたいでよかったです」

 1歳の時から刃物を使わせている。料理の手伝いもだいぶするようになった。

 「危ないからと親から止めることはあまりしないようにしています。高いところに上ったり、収穫のはさみを使うとか、何でもやりたがることを一度はやらせる。多少のけがや転んだりしないと加減がわからないですし。逆に都会だと車が多いから飛び出さないようにとか、心配なことも多いのかもしれないですね」

 健次さんは大阪、夏花さんは東京生まれで、都会で育ってきた。縁もゆかりもない長野での生活だが、地域の人が自分たちを受け入れ、困った時には助けてくれる温かさを感じる。

 「息子と同い年ぐらいの孫と一緒に散歩していて通りがかったおばあさんが、そのまま散歩に連れて行って、孫と息子を一緒に世話をしてくれたりする。頼んだわけではないのに、忙しい時は助かります。道で知り合いに会うと『子どもは元気?』と声を掛けられるし、息子が隣のおばさんのところへ行って、豆の皮むきを一緒にしていたことも。息子や友だちの子どもの成長を地域みんなで見ている感じですね」

 自分たちが飛び込んだ農業の世界だが、一心君に農業を継いでほしいという強い思いはない。

 健次さんは「よく2人で話すのは、息子にはここを飛び出してほしいなということですね。いろいろ自分で見て決めてほしい」。「田舎の良さは都会にいる時、都会の良さは田舎にいる時に感じたり、分かるものじゃないですか。その両方を知った上で、自由にしてほしいですね」と夏花さんが続けた。

 野菜を出荷しない冬の農閑期は花農家などで週に数日、アルバイトをしているが、ゆくゆくは農業だけで食べていけるよう、もう少し規模を大きくしたいと考えている。昨年秋にはお客や地域の人を農場に呼んで感謝祭を開いた。

 「お客さんや地域の人と交流するのを大切にしたい。大規模な農場ではないので、もうけはまだそんなあるわけではないけど、いい物を作ってお客さんが喜んでくれるのを見ることができれば、自分たちも励みになって楽しめる」

 一心君が生まれた記念に自宅前の庭に梅を植えた。ひょろひょろとした幼い木だったが、今は立派に枝を広げ、昨年初めて実を付けた。

 「子どもができて、子育てでたいしたことはしていませんが、地に足が着いた感じです。ここでやっていくんだとあらためて思いました」。夫婦がまじめに自然と向き合う姿を一心君は見ながら育っていく。(共同通信デジタル編集部、10年3月30日配信)

 × ×

 小森健次(こもり・けんじ)さん、夏花(なつか)さん ともに1976年生まれ。農業を始めるため拠点を探し求め、05年に長野県伊那市で七草農場を開く。肥料も自ら作り、農薬を使わない野菜や米を育てている。06年に一心(いっしん)君が生まれる。

 ▽小森さん夫婦の1日(農繁期)

 05:00 起床。家族3人で畑へ。収穫作業や畑仕事

 09:00 朝食。再び畑へ向かい、仕事

 12:00 昼食。午後の仕事に備え、20分ぐらい昼寝

 13:00 畑仕事

 19:00 帰宅

 20:00 夕食、風呂

 22:00 布団で本を読みながら、一心君が就寝

 23:00 就寝

生石高原で山焼き

紀美野町と有田川町にまたがる県立自然公園「生石高原」(標高870メートル)で28日、山焼きがあり、行楽客ら約500人が見守った。

 約30ヘクタールの草原が広がるススキの名所として知られ、枯れ草や雑草が、新芽の成長を妨げないようにと、2003年から、この時期に行われている。消防団員らが事前に周辺の枯れ草を刈り取って防火帯を設け、火勢が強い場所には放水するなどして、延焼を防止。20日には、静岡県で野焼きの火に巻き込まれ、3人が死亡する事故が起きたばかりとあって、スタッフらが「風下に近付かないように」と行楽客らに呼びかけていた。

 両町職員や地元のボランティアがガスバーナーで草木に点火すると、時折、風を受けてパチパチと大きな音をたてながら燃え広がり、草原を焦がしていった。家族で訪れた和歌山市六十谷、智弁和歌山小2年岡村直樹君(8)は「あんなに大きな火を見たのは初めて」と感心していた。

(2010年3月29日 読売新聞)

図鑑片手に道草食おう

芽吹きの春、食べられる雑草を取りながらの散歩はいかが-。こう勧めるのは、「道草料理入門」(文化出版局)の著者で、料理研究家の大海(だいかい)勝子さん(59)。「道草を食う」は、馬が草をはんで前へ進まないことを語源とする慣用句だが、大海さんはあえて言う。「道草を食って」 (市川真)

 「あれは全部、西洋カラシナ。今が旬でおいしいんです」。そう言って大海さんが指さしたのは、東京都東久留米市内を流れる小さな川の河川敷。見ると、黄色いかれんな花が咲き誇り風に揺れている。もとは外来種だが、今は全国で見られる春の植物だ。

 その川の上流にある二十数本の桑の木からは五月下旬、紫色の実がたくさん採れる。甘酸っぱく、ケーキなどのデザートに合う食材という。きれいな水が絶えず流れる水辺に群生するクレソンは、健康野菜として販売もされている。

 近くの公園に移動すると、「ほら、ここにも」と大海さんがしゃがんだ。注意して足元を見ると、芝生の緑に溶け込んで、ノビルの群生があっちにもこっちにも。丸い葉で茎の太そうなものをゆっくり抜き取ると、直径五ミリを超す球根が出てきた。焼くと、ニンニクのようなホッコリした食感と甘みが特徴だ。「田舎に行かないと食べられる草はないと思いがちですが、身近にもたくさんあるんです」と大海さん。

 大海さんが道草を食べ始めたのは三十年ほど前。夏休みになると、出版社に勤めていた夫と家族で野山にキャンプに出かけ、食料を現地調達したのがきっかけだ。新潟県出身の夫は、山菜以外にも、おいしい草があることを知っていた。近所にも、戦時中の疎開先で雑草を食べた経験のあるお年寄りがいて、何がおいしいのか教えてくれた。

 草摘みに最適な場所は、今やどこにでもある耕作放棄地や休耕田。近くに人がいたら、一声掛けてから採るようにしよう。「土地所有者かどうかにかかわらず、近所の人とコミュニケーションを取りながら草摘みをすると、楽しさが広がりますよ」

 使われている田畑の周辺は、除草剤がまかれている可能性がある。また、幹線道路の近くでは草に排ガスが染み付いているかもしれないので要注意。キョウチクトウやアジサイ、スズランなど、毒の成分を含む雑草もあり、大海さんは「何でも口に入れるのは避けた方がいい。草摘みは図鑑片手に」と助言する。

 公園や川など、公共の場所では、食べる分だけ取る節度も大事だ。

 こうした“道草”経験を繰り返すことが、川がどのぐらい浄化されているか、そこが除草剤をまかれている土地なのかどうかなど、身近な自然環境に目を向けるきっかけにもなるという。

 どう料理するかだが、日本の伝統的な山菜の食べ方であるおひたしや天ぷらだけでは、ちょっと寂しい。大海さんは「フレッシュさが売り。手の込んだものではなくても、摘んだその日の夕食には食べてほしい」と勧める。

 自然のものだけにアクやえぐみが強いのが当たり前で、摘んだら手早く調理して早く食べてしまうのがポイントだ。韓国や沖縄料理には参考になる調理法が多いという。雑草といっても、本当の旬は桜の花と同じく一週間ほどしかない。大海さんは「栽培された野菜が一年中売られている中、雑草は、残された本当の旬を味わえますよ」と語る。

足利事件 きょう再審判決

 足利事件の菅家利和さん(63)は26日、宇都宮地裁の再審判決公判で無罪の言い渡しを受ける。逮捕から18年。念願していた名誉回復だが、「自分が無罪になっても、終わりじゃない」。今度は冤罪(えんざい)を訴える人を支援し、冤罪のない社会を訴え続けるつもりだ。

 「私は両親の葬式にも出られなかった。本当は、自分を犯人にした全員に謝ってもらわないとダメ」。菅家さんは3月中旬、足利市内の実家跡地に立った。逮捕当時、菅家さんが家族と住んでいた実家は、収監中に取り壊され、今は雑草が茂る空き地になっている。「あるはずのものがないのは、さみしいですよ」とつぶやいた。

 1991年12月2日に45歳で逮捕されてから、昨年6月に釈放されるまで17年半。「自分には50代がない」。鏡を見る度、白髪混じりでシワの増えた顔に、失った年月を痛感して肩を落とす。夜は取り調べを受けた時を思い出し、うなされることもある。「元の生活に戻れるわけない。もやもやした気持ちは、生涯消えないんです」

 そんな中、数日前、実家近くに住む幼なじみの女性が、偶然菅家さんを見かけて、「警察は悪かったね。自分は信じていたよ」と声をかけてくれた。互いに涙し、再会を喜んだ。冤罪が晴れた思いがした瞬間だった。

 「支援者や弁護団、色んな人の巡り合わせで、ここまでたどり着いた。1人で戦うのは無理。今度は自分が支える番です」。昨年6月に釈放され、安堵(あんど)とともに、「自分と同じような人を支援していこう」という思いがこみ上げた。今は、冤罪を訴えている人の応援や、冤罪防止の集会に精力的に参加。活動を続けるうち、意欲はどんどん膨らんでいる。

 足利事件が全国的に報道され、菅家さん自身も広く知られるようになり、「もう、一市民に戻れないのでは」と感じる時もある。それでも「足利事件を通じ、日本に冤罪があると知ってもらいたい。そして、ほかの冤罪被害者を早く救ってほしい」と訴える。

 最近、自分の名刺を作った。肩書は「足利事件 冤罪被害者」。失った時間の代償として、冤罪のない社会を。「自分が無罪になっても、これで終わりじゃない。足利事件がきっかけに良くなれば。それがせめてもの願い」と、新たな人生を歩き始めている。

(2010年3月26日 読売新聞)